金曜日, 11月 27, 2009

“消費”の次へ

 我が家にはテレビがありません。実家を離れた時からですので、足掛け9年ほどになるでしょうか。
 テレビの画面を見る機会は、テレビのある店で外食した時くらいです。
 以前は「テレビがない」というと大変驚かれていましたが、周囲の反応を見ると、最近では数は少ないもののさほど珍しくはないことのようです。

 私自身は、テレビがないことに関して不便を感じたこともなく、テレビがあれば良いのに、と思ったこともありません。
 もちろん、テレビ番組の中には良いものもあると思うのですが、それはDVDになったもの購入して見れば充分ですし、新聞やインターネットで情報を得てしまえば、テレビを設置して常時見られる状態にしておく理由はなくなってしまうのです。

 私がテレビを持たない理由は、上に挙げたような「代替手段があり困らないから」という消極的な理由の他に、「テレビが苦手だから」という積極的な理由もあります。
 元々騒がしい音声が苦手だったことも一因かとは思うのですが、一番の原因は“自分の中で考える時間”が確保できないことです。
 テレビからは絶え間なく光や音や情報が流れ出てきて、自分はそれを受け止めるのに精一杯になってしまいます。どんな情報が流れてきても、一度自分の中で飲み込んで、考える時間がなくなってしまいますし、音や光の刺激によって、考えに集中するのも難しくなってしまうからです。

 以前、「自分はテレビを見て分からないと思ったことがない。それはテレビの特徴ではないか」と書かれたものを読んだことがあります。確かに、(わかりやすさを優先して正確さを損なっているにしろ)テレビの情報はとてもわかりやすく、受け止めるのは簡単です。しかし、そのことによほど注意していなければ、消費するだけになってしまうのがとても怖く感じるのです。

 どんなに簡単で分かりやすい情報であっても、自分で飲み込んで考える時間がなければ、情報を消費するだけ、つまり、ただ与えられた刺激として自分の意識を通りすぎていくだけで後には何も残らないといったことになりがちなのではないでしょうか。
 また、情報の発信側も、「いかに情報を消費させるか」ということに苦心しているばかりで、「それが本当に受け手のものになるか否か」ということには無頓着のように感じます。

 情報技術の発展により、発信する側と受けとる側の境目が曖昧になりつつある今こそ、単に「消費する/させる」といった一方向のやりとりから、一歩進んだ「作り出す/受け止めて次を作り出す」という双方向のやりとりにシフトしていくべきなのではないかと感じています。
 その媒体としてテレビがふさわしいかどうかは分かりませんが、将来そのような存在になったときには、我が家にテレビが設置されるかもしれません。

by 安藤