金曜日, 11月 21, 2008

お江戸会計事情

 9月の半ば、7年半住んだ京都を離れ、名古屋で働きはじめました。出身地の東京から考えると、これで江戸城→二条城→名古屋城と、まるで城めぐりをしているようで、不思議な感じもしています。

 3つの城は、すべて天下普請の城(徳川家康が直接建設を命じた城)です。当時の姿は残っていませんが、再建された姿を見ても十分な大きさです。  当然、建設費も相当なものであったと思いますが、江戸幕府ではどのように事業をおこなっていたのでしょうか。

 実は幕府には今でいう「政府予算」のようなものはなく、どんぶり勘定で物事が進んでいました。  先に事業がはじまって、財源はあとから調達・・・現在とは順序が逆転しています。(それとも、本質的には同じなのかも?)  建設事業は、勘定奉行の指示でおこなわれていました。会計ソフトの名前でもおなじみの「勘定奉行」は、財務・会計のことだけではなく、建設や一部の裁判も担当する、今でいう「財務省+国土交通省+裁判所」の役目を持つ重要なポストでした。

 ではその帳簿はというと、ほとんど資料が残っていません。実は幕府の財政に関する資料は、明治維新のときに旧幕府の官僚たちの手によって焼きはらわれているのです。(そのため、新政府は大がかりな財政をきりまわすノウハウを一から作らねばならず、大変苦労したようです。)やはりお金がらみのことは新体制に渡すには色々とまずいということなのでしょうか・・・このあたりも、現代と比較して面白いところです。

 一方で、一般の商店では、「帳合」というかんたんな記帳方法で経理を行っていました。「大福帳」にひとつひとつの取引を記帳し、売掛金を管理するなど、やはり、商売には帳簿がつきもののようです。  さらに近江商人にいたっては、当時から複式簿記での記帳を行っており、現在の決算書と附属書類にあたる「店卸目録」をはじめ、現在とかわらない進んだ帳簿体系を備えていました。(なんと、京都支店・大阪支店・本店の連結B/Sまで残っています。)
 どうやら現在の会計の原型は外国から輸入されてきたものばかりではないようです。

 近江商人の複式簿記帳簿を見ていると、現在の帳簿の考えかたは決して新しいものではなく、過去の商売人たちによっていろいろと工夫されてきた結果であるということがわかります。
私も先達を見習い、日々いろいろと学び、工夫していきたいと改めて思いました。

by 安藤